2月11日、NHKの大河ドラマ「西郷どん」を見ていて、薩摩藩の牢屋の場面で、囚われていたむさくるしい姿の男が、突然イングランド民謡『ホームスイートホーム』を英語で唄いだしたのを聞いて驚いた。
これは、土佐中浜の貧しい少年の漁師万次郎が、遭難して漂着した無人島からアメリカの捕鯨船に助けられ、やがて船長の養子となりアメリカで教育を受け仕事をして、その後琉球に帰国上陸する。当時の日本は海外渡航も入国も禁止していたので捕らえられ、琉球を管轄していた薩摩藩に送られてきた事実にもとづいている話なのだろう。西郷と万次郎はほぼ同年輩なのも事実であるが、本当にどんな接触があったかは、明らかではない。が、当時『ホームスイートホーム』がアメリカでも唄われていたことは十分に考えられる。 昭和20年8月15日の日本の敗戦後、私が学徒動員から復帰した中学校で、音楽の時間に最初に唄った英語の歌がこの歌だった。動員前の音楽の時間では、学徒出陣の歌「花も蕾の若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ ああ紅の血は燃ゆる 」とか、加藤隼戦闘隊「エンジンの音 轟々と隼は征く 雲の果て翼に輝く日の丸と胸に描きし 赤鷲の印はわれらが 戦闘機」という歌を懸命に唄っていたのが、一転して『ホームスイートホーム』を英語で唄うことになった。西宮の空襲で多くの人達と同じく家を焼かれ住むところを失い、親類の家に一家で寄寓していて「我が家」が欲しかった当時の私にとってはこの歌は身にしみた。 Mid pleasures and palaces though we may roam, Be it ever so humble, there's no place like home. A charm from the skies seems to hallow us there, Which, seek thro' the world, is ne'er met with elsewhere. Home, home, sweet, sweet home, There's no place like home, There's no place like home. 快楽と宮殿の中をさまよっても 貧しいながら、我が家にまさる ところはない 空の魅力が我らを清めてくれる ように思える 世界中探しても他所では絶対に 見つからない 我が家、我が家、楽しい我が家, 我が家にまさる場所はない 我が家にまさる場所はない この歌は1823年に作詞作曲され、同年初演のオペラ『ミラノの乙女』の中で唄われたとされている。日本ではこの歌は1889年(明治22年)に里見義によって訳され、唱歌『埴生(はにゅう)の宿』として広く知られるようになった。 埴生の宿も 我が宿 玉の装い うらやまじ のどかなりや 春の空 花はあるじ 鳥は友 おお 我が宿よ たのしとも たのもしや これは美しい言葉で綴られた素晴らしい訳詞ではある。が、当時家を失っていた私としては、英語の原詞の方が自分の心にピタッときて、日本の訳詞はあまりに綺麗すぎると思っていた。それは、日本の訳詞には″though we may roam″ の部分が省略され訳されていないからであろう。roam は「さまよう」「流浪する」という意味で、少なくともその時点では我が家にいない、家を離れて我が家を想いそれにまさる場所はないと言っているのだ。ところが日本の訳詞ではすでに我が家に住んでいてその中で、埴生の宿(土で固めた家の意味)でもたのもしいとたたえているように思える。また原詞にはない埴生の宿という言葉は、木造家屋の多い日本での訳詞としてはあまり適切ではなく、心に響かないのだ。 私は西宮市シルバー人材センターの同好会の英会話サークルのマネージャーをしていて、英語で唄う歌の担当をしている。次の会合のレッスンの後には、みんなで唄う歌をこの『ホームスイートホーム』に決めている。実はサークルでこの歌を唄うのは、今回が初めてではない。3年ほど前にもみんなで合唱したことがある。その時は、ヨーロッパのソプラノ歌手ジョアンサザーランドの1989年のYOUTUBEの画像と音声をみんなで観聴きして「さあ、合唱しましょう」と私が音頭をとったのだが、ソプラノの高い唄声に16名のメンバー誰もがついて行けず、上手く唄えなかった覚えがある。それに日本でこの英語の原詞を合唱するときでも『埴生の宿』の歌詞のきれいな日本語のイメージが支配して、原詩の持つ放浪の寂しさ、我が家に住めない悲しさが感じ取れないので、私の思っているような歌の気分に乗らなかった。合唱のサークルでもないので、上手に唄えないのは仕方ないと思っているが、その歌の持つ感じだけは合唱するみんなで共有したいものだとそのとき思った。そして今、次の会合で合唱する時はどうすればよいか、を考えておかないといけないことにもなっている。 私は今まで『ホームスイートホーム』の歌を聞いて、溢れ出る涙が止まらなかったことが2度あった。その一つは『火垂るの墓』のアニメ映画で戦災にあった中学生の兄と幼い妹で暮らしていた満池谷のニテコ池の防空壕で妹が死んだ場面、そして兄がその死体を近くの丘で燃やすため運ぶ場面で、この歌が流れた時である。歌声はイタリアの20世紀初頭の有名な歌手アメリータ・ガリ・クルチのソプラノだった。 これは野坂昭如の直木賞の作品をアニメにしたものであるが、大空襲で家を焼かれ親を亡くし、兄妹で必死に生き抜こうとした野坂自身の戦争の体験が色濃く反映されている作品である。私も野坂と同年輩であり、空襲で焼け出されたときは中学の2年生で、落下する焼夷弾雨のなかで一人になり、戦災孤児にもなりかねない状況であった。ただ野坂の作品を読んだ時は涙が出なかったが、アニメを見てガリ・クルチの歌を聴いたときは、どうしょうもなく泣いた。 もう一つは映画『ビルマの竪琴』でこの歌が唄われた時である。先の大戦末期のビルマ戦線、音楽学校出身の隊長は歌を部下に教え合唱させることで小隊の規律を保ち、部下を慰め励ましてきた。ところが、宿泊した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『埴生の宿』を合唱しながら戦闘準備を整える。そして突撃しようとしたとき、敵が同じ節の『ホームスイートホーム』を唄い始めた。息を呑む時が少し続き、やがて、手作りのビルマの竪琴を持ち歩いている水島上等兵が竪琴を歌に合わせて弾き始める。すると、日本語の歌と英語の歌の感動的な大合唱となった。映画のこの場面で涙が私の頬を伝って流れた。その後、小隊は敗戦の事実を知らされ武装解除するのである。 市川崑監督のこの映画は1956年版(隊長役は三國連太郎、水島上等兵役は安井昌二)と1985年版(隊長役は石坂浩二、水島上等兵役は中井貴一)がある。私が見たのは1956年度版であるが、今でもYOUTUB動画などで1985年版の映画の部分も見ることができる。 英会話サークルの次の会合で『ホームスイートホーム』を合唱する前に、私は少し『火垂るの墓』と『ビルマの竪琴』の話をしようと思った。そしてこの歌の2番の初めの歌詞をメンバーのみんなに見てもらおう。 An exile from home splendour dazzles in vain Oh, give me my lowly thatch'd cottage again! 故郷から追放された身には どんな輝きも虚しい おお、藁葺きの粗末な我が家に 帰してくれ 『ホームスイートホーム』の歌詞はこの2番で故郷から追放されて、元の我が家を恋い偲んでいる状況が一層明らかになる。『埴生の宿』とはその意味する内容は違ってくる。が、これは家を失った兄妹の『火垂るの墓』、そして故郷の家を離れ、遠くビルマの奥地をさまよった兵士たちの『ビルマの竪琴』と、通じる状況ではないかと思われる。 さぁ、次の英会話サークルの会合では、思い切り感情を込めてみんなで合唱しよう。私は今、この歌に涙を流した昔を思い出しながら、懸命に声を合わせて唄うつもりである次のその会合を、待ちきれない思いでいる。